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チンギス・ハーン 恐竜大国 モンゴル歴史 ノモンハン事件

チンギス・ハーン

チンギス・ハーンの生い立ち

彼は、モンゴル部の中の名門ボルジギン氏族のイェスゲイ・バートルを父とし、オンギラト部のオルクヌウト氏族のホエルン・エケを母とし、1162年(異説あり)にモンゴル北部のオノン川上流にあるデリウン岳の麓(現ダダル近く)で生まれた。その時タタル部との戦意に勝ち、敵将テムジンを連行して帰還した父は、敵将の名にちなんで赤子をテムジンと命名した。これは、記念すべきできごとにちなんで命なする当時の習慣にならってのことであった。テムジンとは「鉄を作る人(中世モンゴル語でテミュルチ)」の意である。
彼の生い立ちで特筆すべきことは3つある。いずれも晴れが生涯「力」の哲学を信奉することになる契機となった事柄である。その第一は、母が父に略奪された人妻だったことである。彼女の新郎、メルキト部のイェケ・チレドゥが新婦ホエルンを連れ、彼女家からわが家へ帰る途中、彼女はイェスゲイによって強奪され彼の妻にされたのである。この事件は当時のモンゴル高原の無法状態を端的に物語っていると同時に、彼の父親が一体どっちなのかという、血筋につながる重大な疑惑を惹き起こすこととなる。「頼むべきは由緒正しい血筋ではなく、自らの力だけだ」。
第二は、彼が少年だったとき、父親がタタル部によって毒殺されたことである。これがかつて、前記タタル部のテムジン将軍を捕まえたことへの復讐であることは明らかである。この結果テムジン一家は無力な母子家族にと転落する。無力なものが見捨てられるのは同時のモンゴル高原の厳しい掟だった。
第三は、少年テムジンが釣った魚を異母弟のべクテルが盗んだことから、その正妻として行った殺人である。盗みという不正に、殺人という暴力行為で報復したのだ。しかしこれは決して異なる復讐ではない。そこには正義ないしは法の芽生えがある。後年、全モンゴルのハーンとなったとき(1206年)、彼がヤサ法なる憲法を発布することになる大元がこのあたりにあったといえよう。

群雄割拠の東アジア

12世紀のモンゴル高原は非情の時代だった。名地に群雄が割拠し、血で血を洗う死闘が繰り返されていた。モンゴル部も全体の中の一部族に過ぎなかった。各部族とも、己を守り切れないものは敵を倒すなど到底できず、力のない者は次々に消されていく運命にあった。しかし戦いはモンゴル高原に限定されていたわけではない。南には異民族国家が自由押しに蟠踞していた。
中国北部には金、その西に西夏、さらにウエグル、西遼、そして中央アジアの雄ホラズム王国があった。このような状況下で、群雄割拠の全モンゴルを統―しそこに平和をもたらすべき者が現れたのは、歴史的必然であったのかもしれない。

ハーン位推戴

これはひとつの部族で属する名紙族の長たちによる長老会議(クリルタイ)によってその部族の長に選ばれることを意味する。テムジンがモンゴル部のハーンに推戴されたのは1189年のことである。チンギスとはモンゴル人たちの信奉していた「光の精霊」の意と解される。しかしその時のハーンは、諸氏族の単なる代表格ほどの意味しかなく、実権は名氏族の長たちが依然保持していた。
しかし、タタル、ケレイトなど地の部族をすべて征服した彼が、部族長たちのクリルタイで推戴されたハーン位(1206年)は、絶対的な全モンゴルの支配者としてであった。

支配への衝動

力の信奉は支配への衝動を誘発せずにはおかない。金(中国北方の王朝)への侵攻がその好例である。全モンゴルのハーンとなったとき、彼はすでに南方の金に目を向けていた。
一過性の略奪作戦の形で開始された金への侵攻は、やがて占領した名地にモンゴル軍を常駐させ、恒久支配を狙う侵略戦争にと変質していった。
支配への衝動が世界制覇というおそるべき極限に達したのは大西征(1211~1225年)においてである。金との戦いに数年を費しながら決着をつけられなかった彼が、ホラズム王国に侵攻し、わずか数ヵ月でその心臓部マワラアンナフルを制圧したときに、その心中に世界制覇という窮極の野望が生まれたのは当然の結果であろう。1220年、ホラズム南部で発せられた布告文「司令官、大官、平民よ。神が東から西に及ぶ地上の帝国を朕に與え給うたことを知れ」がそれを証明している。ホラズム王国に続いて、コーカサス、キャプチャっク、さらにはロシアの草原にまでモンゴル軍を派遺した大西征は、たとえさまざまな口実や事情が絡まんでいたにせよ、彼の窮極の野望の実現化と見るはかはない。

チンギス・ハーンの死

1225年、大西征から、帰投した彼は、休む暇もなく再び西夏侵攻作戦を開始した。最終目標はいまだ決着のついていない金であった。
だがこの作戦中、落馬が熱病か(諸節紛々である)、ともかく彼は急死を遂げるにいたる。
時は1227年8月18日、所は中国清水県西江(これも諸説あり)、享年は数え年で66歳(これも不確定)だった。遺体は、彼が生前愛していたブルカン岳の山裾、「元史」によれば「起輦谷」つまりヘルレン川の河岸のいずこかに葬られた。殉死者や副葬品とともに遺体が士中深く埋められると、その上に士がかけられ、馬がそれを踏みならして平らにした。兵役を免除されていたウリヤンハイ族の者たちが警備にあたった。やがて草木が生え、それが密林となり、埋葬地がどこなのかわからなくなってしまった。埋葬地の位置は今もって確定されていない。

モンゴル帝国の残照継承国家について

第2代のハーンとなったのは、三男の尾オゴタイである。彼は父の巨大な遺産、つまり強力な軍事組織と経済機構を基礎として、金の完全制圧をなし遂げ(1236年)、さらに父の大西征の上をいく欧州大遠征(1236~1241年)を断行した。また元のビライも南宋・案南などを功め、朝鮮を制圧し、日本にも襲いかかってきた。
しかしチンギス・ハーンの意によって分裂した継承国家群、すなわちキップチャック、チャガタイ、オゴタイ、イルの諸ハーン国と膝元のもとは、宗祖が築いたかつての栄光あるモンゴル帝国のような世界史的次元から、次代に地方史的な次元にと転落し、やがてモンゴル民族は故郷のモンゴル高原の域内に帰り、東洋史の中でも一地方史の無台に姿を現わすだけとなっていた。

日本人とチンギス・ハーン

末松嫌澄の「大征服者成吉思汗は日本の英雄原義経と同一人物である」(明治12年)や、小国部全一郎の「成吉思汗は原義経地」(大正13年)など、いわゆる義経説はもはや顧みられなくなったが、それでも大草原の英雄たる彼の存在は、同じにモーコ斑を持つ日本人にとって、永遠のロマンであり続けるであろう。戦後書かれた井上靖の「蒼き狼」、高木彬光の「成吉思汗の秘密」、中津文彦の「ジンギスカン殺人事件」などを見てもわかるように、常に日本人の想像力を揺さぶってやまないのが、チンギス・ハーンその人ではなかろうか。
(川崎 淳之助)



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