チンギス・ハーン
恐竜大国
モンゴル歴史
ノモンハン事件
1930年代になり、帝政ロシアを継いだソ連が革命の混乱からようやく立ち直り、軍事力を機械化、重装備化によって増強しつつあった。日露戦争においては彼我の装備にさほど差がなく、日本軍の白兵戦術も功を奏し、また中国大陸における中国軍との小競り合いにおいては、日本軍の圧倒的な武力と中国政府軍の戦術的後退という砲身によって、日本軍は破竹の進撃を続けていた。このたび、白兵戦による決定的勝利獲得という戦術は何ら変更されず、日本陸軍の基本思想となっていた。
一方、ソ連軍は機械化や重装備化を進めていたが、スターリンによる反対派の粛清が激しくなり、赤軍(ソ連軍)高級幹部も次々粛清され、軍隊としての実力は低下していた。
その後、1938年の朝鮮(当時は日本の殖民地であった)とソ連との国境付近で起きた張鼓峰事件では、日本軍はソ連軍の反撃によって一個軍隊が壊滅する打撃を受けたにもかかわらず、敗北とは総括されなかった。
満州国の国境付近に大兵力をおいていた日本陸軍は、歩兵一個軍隊と騎兵一個中隊を現地に派遣、ここに戦闘が勃発した。
モンゴル・ソ連連合ぐんは頑強に抵抗し、日本軍は後退せざるを得なかった。その後、関東軍参謀の作戦指揮によって、モンゴルのタムスクへの食う空爆と第23師団および戦軍隊を投入し、大規模な攻撃を開始した。
しかし、相変わらずの白兵戦重視で、投入した日本軍の軽戦車はソ連軍の重火器によってブリキのおもちゃのように簡単に破壊された(この戦車の残骸はスンベル村でかつて見ることができた)。
一方、ソ連側の戦車の装甲は厚く、日本軍の火器では歯が立たなかったが、歩兵はソ連戦車の弱点であるガソリンエンジンを火炎ビンで攻撃し、一時はソ連軍側をハルハ川を越えて退却させた。
この結果、日本軍23師団は壊滅、出動人員約5万9000人のうち戦死者7696人、戦傷者8647人、行方不明者1021人(多くは捕虜になったため、帰国しなかった)、戦病者2350人という空前の被害を出し、敗北する。出動部隊の3分の1が損害を受けた「事件」であった(モンゴルでは「ハルハ川戦争」と呼んでいる)。
日本陸軍はこの敗戦をひた隠しにした。そしてこの「事件」は、北方の敵国ソ連との戦争を避け、南方進攻に目を転じさせる大きなきっかけとなった。
日本についていえば、日本陸軍は伝統的に、北進論を唱えていたが、この事件の敗北により、南進論に転じ、その後、対米戦争に同意することになり、真珠湾攻撃に繋がることになった。
事件の背景
1920年頃から中国東北部(満州)に勢力を掻大していた大日本帝国は、極東政策を取るスターリン体制下のソ連と各地で小競り合いを起こしていた。帝政ロシアによる、シベリア鉄道の敷設に見られるように、ロシアは一貫して中国東北部や朝鮮島に勢力園圏を拡大させようとしていた。これを阻んだのが大日本帝国で、その結果に日露戦争が勃発し、からくも日本軍は勝利を収めることになった。白兵戦重視日本陸軍
その後も、日本陸軍は一貫してロシアを仮想敵国と見なし、訓練、作戦研究を行っていたが、その戦術としては、歩兵の白兵戦によって敵をせん滅せんとするものであった。1930年代になり、帝政ロシアを継いだソ連が革命の混乱からようやく立ち直り、軍事力を機械化、重装備化によって増強しつつあった。日露戦争においては彼我の装備にさほど差がなく、日本軍の白兵戦術も功を奏し、また中国大陸における中国軍との小競り合いにおいては、日本軍の圧倒的な武力と中国政府軍の戦術的後退という砲身によって、日本軍は破竹の進撃を続けていた。このたび、白兵戦による決定的勝利獲得という戦術は何ら変更されず、日本陸軍の基本思想となっていた。
一方、ソ連軍は機械化や重装備化を進めていたが、スターリンによる反対派の粛清が激しくなり、赤軍(ソ連軍)高級幹部も次々粛清され、軍隊としての実力は低下していた。
満州国の成立
こうしたなか、清朝最後の皇帝・溥儀を執政(後に皇帝となる)にまつり上げ、日本の傀儡政権たる満州国を中国東北に作り上げた大日本帝国は、ソ連のの実力を試すためもあり、1935年頃から満州国とソ連との国境付近で紛争を発生させた。初期の紛争においては、日本軍の攻撃によりソ連軍は撤収したが、これが、日本軍にソ連軍の実力を侮らせる原因のひとつになった(1937年6月19日発生の乾岔子島事件)。その後、1938年の朝鮮(当時は日本の殖民地であった)とソ連との国境付近で起きた張鼓峰事件では、日本軍はソ連軍の反撃によって一個軍隊が壊滅する打撃を受けたにもかかわらず、敗北とは総括されなかった。
ノモンハン事件の発生
こうしたなかで起きたのが、1939年5月の満州国とモンゴル人民共和国の両国境守備隊の小競り合いであった。満州国の国境付近に大兵力をおいていた日本陸軍は、歩兵一個軍隊と騎兵一個中隊を現地に派遣、ここに戦闘が勃発した。
モンゴル・ソ連連合ぐんは頑強に抵抗し、日本軍は後退せざるを得なかった。その後、関東軍参謀の作戦指揮によって、モンゴルのタムスクへの食う空爆と第23師団および戦軍隊を投入し、大規模な攻撃を開始した。
しかし、相変わらずの白兵戦重視で、投入した日本軍の軽戦車はソ連軍の重火器によってブリキのおもちゃのように簡単に破壊された(この戦車の残骸はスンベル村でかつて見ることができた)。
一方、ソ連側の戦車の装甲は厚く、日本軍の火器では歯が立たなかったが、歩兵はソ連戦車の弱点であるガソリンエンジンを火炎ビンで攻撃し、一時はソ連軍側をハルハ川を越えて退却させた。
日本軍の壊滅
ソ連軍側は、後に大元帥となるジュ―コフ(ウランバートルに記念像がある)が指揮官となり、指揮系統を整え、戦車も火災に強いディーゼルエンジンと交換させ、進撃してくる日本軍に圧倒的な砲火で総反撃した。この結果、日本軍23師団は壊滅、出動人員約5万9000人のうち戦死者7696人、戦傷者8647人、行方不明者1021人(多くは捕虜になったため、帰国しなかった)、戦病者2350人という空前の被害を出し、敗北する。出動部隊の3分の1が損害を受けた「事件」であった(モンゴルでは「ハルハ川戦争」と呼んでいる)。
第2次世界大戦の勃発と停戦協定
当年9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵入。第2時世界大戦が勃発したこともあり、ソ連軍側と9月15日に停戦協定が結ばれ、一応の期末となった。この結果、モンゴルに人々間に、日本に対する恐怖と憎しみ、ソ連に対する信頼と尊敬の念が生まれ、その後のモンゴルの政治・外交に大きく影響することとなった。日本陸軍はこの敗戦をひた隠しにした。そしてこの「事件」は、北方の敵国ソ連との戦争を避け、南方進攻に目を転じさせる大きなきっかけとなった。
事件の総括はなされなかった
しかし、日本陸軍は精神主義を捨てず、機械化の遅れや重火器の不足などの反省はなされず、敗北の青任を前線部隊指揮官に擦り付け、生き残った多くの第一線指揮官に自決を強要し、兵士の多くは中国前線に送られた。作戦を強行させた参謀はじめ司令部の青任は問われず、こうした上層部の無青任さは、第2時世界大戦の敗北にいたるまで続くことになる。この戦争のもたらしたのもの
モンゴル側にちぃていえば、ソ連に対する信頼が深まり、日本に対する嫌悪感が定着するきっかけとなった。日本についていえば、日本陸軍は伝統的に、北進論を唱えていたが、この事件の敗北により、南進論に転じ、その後、対米戦争に同意することになり、真珠湾攻撃に繋がることになった。










