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モンゴル帝国崩壊と強く関係
モンゴル帝国の首都カラコルムは、今のハラホリンに置かれた。モンゴル帝国崩壊とともに中国の圧力が加わり、中国の清朝乾隆帝の頃には、モンゴルの政治実権は中国人間寮に握られ、中国の植民地と成さり異ててしまった。カラコルムにあった寺院群はそこを離れ、チベット仏教の特徴のひとつである活仏の転生思想の影響もあり、次々と移動した。ウランバートル町となったきっかけ
1639年、ザナバザルが初代のジェプシンダンバ活物となり、トール川とセルベ川の畔にゲル寺院を設けたことがウランバートルの町の起源である。ここのゲル寺院は、18世紀には、宗教だけではなく政治、経済の中心と見なされるようになる。中国清朝の弁事大臣が駐留するようになると、中国とロシアとの中間地点であるこの地の重要さが増した。
また活仏のゲル寺院が、1788年より約60年間は移動しなかったこともあり、この間多くの木造家屋、寺院、商店が作られた。1855年に、ゲル寺院が最後の移動により現在の町に戻って来て、寺院は固定の木造建築となり、現在に至っている。
旧名はイフフレー(中国名、庫倫)
ウランバートルはイフフレー(大きなフレー)と呼ばれていたが、この名はモンゴル帝国時代に遊牧集団の野営の名クリエンに由来する。この言葉の口語形がフレーであり、中国語では庫倫(クーロン)と表記するが、これはモンゴル語クリエンの音訳と言われる。本来のイフフレー宗教都市で、僧以外の俗人は極めて少なかったが、19世紀半ば頃から住み着いた参拝者や中国人商人が別個に居住地区を形成していた。特に中国人商人はイフフレーの東約5kmの地区に集中した。ここは城壁と城門を備えた中国式の町で、現在、この城壁の一部などが残されている。
1836年にゲル寺院が移動を行った時、ジェプツンダンバ活仏の許可を得た中国人商人たちはガンダン寺付近に商業街を造った。こうしてイフフレーは中央に宗教地区、周辺に俗人と商人地区、西側にガンダン寺を抱えた国際都市として展開していく。イフフレーは中国人商人の事実上の支配化に置かれていた。
モンゴルと独立
1911年、中国の辛革命により清朝政府が崩壊するとモンゴル国独立の運動が高まり、12月1日、清朝の駐庫倫弁事大臣を国外言退去させた。シェプシンダンバ8世活仏はモンゴル国ハーン位に推戴され、ボグド・ハーンと名乗り、元号を共戴とし、都市をニュースレルフレーと改称する詔を発し、モンゴル国は独立を宣言した。
しかし、ロシア中国の2強国は圧力を加え、1913年に、現在のモンゴル国の領域の自治だけを認める宣言を発した。ここにモンゴルは独立を取り消すという大きな屈辱を味わった。
更に1917年のロシア革命のためロシアの影響力が低下すると、中国軍はモンゴルに進出し、軍事的圧力によって自治すらもハンジョウ返上させられた。ところが、1920年、ロシア革命後のロシア内戦で、反共産派のウンゲルン男爵率いる白軍がモンゴルに侵入し、中国軍を追い出し、ボグド・ハーン政権を復活させた。この白軍に、日本人大陸浪人が約70名参加していた。
ウランバートル(赤い英雄)改称
しかしこの白軍による政権奪取も束の間、共産主義の影響を受けたモンゴルの革命グループは、1921年、・ソ連赤軍(共産派の軍隊)の援助を受け、白軍を撃破。ボグド・ハーンを大統領とするモンゴル人民政府を樹立した。この内戦の際、日本人大陸浪人のほぼ半数が戦死か刑死の運命をたどった。1924ねん、ボグド・ハーンが病死するとモンゴルは社会主義化していく。イフフレーはウランバートル(赤い英雄)と改称された。また1939年のノモンハン事件(モンゴルではハルハ川戦争と呼ぶ)をきっかけに、モンゴル政府はいっそうソ連への傾斜を強めたのである。










